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今を生きる LIVE NOW:露草日記

今を生きる LIVE NOW:露草日記

活動レベルの基準

 私の人生も今年の誕生日で55年になる。定年まで7年。ただの看護師だ。
今はうつ病治療中で、自分の活動レベルの基準は睡眠時間9時間。仕事は与えられてことをコツコツとこなし、あまり余計なことはしない。
 定時で終えたら帰宅し簡単な夕食を食べ後はTVを見ながらPCでブログを書いたりコメントを書いたりして薬をのみ就寝。朝は目覚ましで起こされながら簡単な朝食を食べ薬を飲み、職場へ直行。
 
 出社時間ぎりぎりだと朝の仕事の準備ができないため、皆より早めに職場に着くようにしている。暖房をつけ、ポットにお湯を準備し、昨日のゴミを片付け、当日の訪問予定患者のカルテを出し、メンバーに配布する。
 何もできない私なのでこのくらいは当たり前と思っている。
今の活動レベルの基準は欝になった頃の生活レベルだ。余程の事がない限りは予定を入れない。予定を入れる場合は過労に陥らないように充分休養をとってからにする。欝の薬をのみ始めてから今年で7年になる。まさか自分が初老期鬱病になるとは。
 今さらながら考えてみると、欝にきっかけは卵巣腫瘍で悪性といわれたことがきっかけだったかもしれない。

 もう、10年も前になるが、その秋右腹部に腫瘤が触れた。秋は毎年自治体健診で忙しくてやっと年末になって受診した。

 その頃私は山岳会に入っていて年末に出発する冬山合宿にも行くことになっていた。その年も忙しく冬山準備(体力と技術)が充分にできずに出発。案の定、私はバテバテで、みんなの足を引っ張った。そのお陰で二日目の予定のテント場に行き着くことができず、ホワイトアウト。やっとテントを一幕張る場所をみつけ一晩エピガスで暖をとりながらテントの中で過ごした(ビバークにちかい)。
 このときの厳しさは後々まで、あのときを乗り越えられたのでどんなことも乗り越えられるという自信にはなったが、今考えると卵巣嚢腫をかかえての冬山は無理だったかもしれない。

 年明け血液検査で再度受診したところ、翌々日職場に電話があり「至急受診してほしい」とのこと。それからは大学病院に受診したり、転移の確認のため胃の内視鏡や骨盤CTや腹部CTをとり、入院まえの精密検査を受けまくった。桜のサク時期であったが、その年は桜は楽しめそうもないと諦めた。
 腫瘍マーカーがめちゃくちゃに高く、大学病院の腹部エコー検査の担当医は悪性であることを前提に話を進めてくださった。卵巣腫瘍を摘出し、お腹を閉じる前に迅速病理検査をして悪性と分かった場合は、左右の卵巣摘出、リンパ節を郭清し、子宮全摘することになるという。 手術はどこでしますか、と尋ねられるので、悪性であった場合を考えると一回の手術で出来ることはしてもらいたいし、その後の化学療法や、再手術のことを考えると答えは一つしかなかった。
 婦人科の知識はなかったので、病院の帰り神保町の三省堂の医療・看護の売り場に行き婦人科悪性腫瘍の本を何冊も見た。そのころは卵巣腫瘍の化学療法の成績は悪く、看護系の本を読むと絶望的なことしか書いてなく、医学雑誌のほうが新しい知識が多く、半日くらい立ち読みして自分の治療方針がどういう意味を持つか理解した。

 運がよければ1ヶ月ほどの病欠、運が悪ければ1年以上の病欠、社会復帰は不明。悪性腫瘍だったら壮絶な闘病生活が続く。悪性疾患と聞いてから自分の今までを思い返すと「何もしていなかった」ことに気付く。最初の手術でもし良性と分かったらせめて今まで育ててもらったことの恩返しをしようと思った。

 この考えがその後訪れる多忙な生活をこなしきってしまったことにつながろうとは思いもしなかった。
 運よく良性で手術後抜糸を待たずに退院し一ヶ月の病欠をいただき実家に帰った。ちょうど5月で故郷の新緑はまぶしく美しかった。大好きな中央本線から松本に、松本から伊那の町を経て東海道本線に乗り、大井川鉄道に乗り各駅停車のたびを楽しんだ。自分の人生はこれで終わるかと思ったことがあるものにとっては、自分が身に置いている世界そのものが美しく忘れられない旅になった。

 その年の秋から診療所が移転、新築するということになり、診療所の業務をしながら(1看護師なのでめちゃくちゃに働かないと仕事が終わらないし)、その年の自治体検診が終了とすると同時に診療所建設の仕事が始まった。

 設計事務所の方はとてもクライアントの立場に立ってくださるので、何とか設計図が読めるようになった私は、設計図が出来上がってから注文を色々つけることになったがそれを受け入れてくれた。建物を作るってとても大変なことで壁紙から床材から何から何までクライアントの決定がないと一歩も進んで行かない。診療所の外来業務をしながら新しい診療所を立てるのは大変なことだった。

 いくつかの診療所を見学し、必要な設備、備品の決定、そのすべてを任せられたって困ってしまう。困ってしまうがやるしかない。備品のカタログを数十冊読みこなし、同僚の意見を聞き、価格を業者と交渉し、今までしたことがなかった仕事をし終えた。診療所の所長も私の仕事を後押ししてくださり、処置室の棚や処置台に100万も投入することを許してくれた。秋からゴールデンウィークまで約半年新診療所建設に全力を投入した。ちょうど2000年の介護保険のスタートの年にぶつかる。

 診療所の患者さんのケァプランは診療所の看護師が立てるべきだと私は思ったし所長と事務長の賛同された。ケアマネージャーは私一人だったため一挙に仕事が増えた。このときの決断は間違いではなかったと今でも思うが一人の人間ができる限界はあるわけで、そのことを充分認識してなかった。

 深夜過ぎまで仕事をしてタクシーで自宅に戻り、眠剤を服用して4時間ほど睡眠をとり、また朝8時には出勤するという休日もないような仕事を半年ほどし続けた。今なら、無謀な働き方だと判断して、個人的にはしたくても、業務として採用することはしないと思う。新しい業務を開始するなら、人的体制を確保したうえで労働基準法を遵守することが大原則でそれが困難なら組織として断念する。それがまっとうな仕事の仕方だ。

 どんどん「壊れていく」私を見ている周りの職員は、冷ややかで遠巻きに見ているって感じで、ドンドン孤立していくことが恐ろしかったし、労いの言葉さえかけてもらいない状況に追い込まれて行った。

 上司である事務長は立ち話で「○○さん、このごろおかしいから精神科に行ったら?」と何とも直截的な表現で受診を勧める。
 こんな乱暴な表現で、精神科の受診を促そうとする上司に怒りがこみ上げて来て、翌日「退職願」を提出。賃金資料の〆には、一切時間外や休日の出勤は記載せず、せめてもの抵抗だった。
 労働組合もあるのだが、全く関心を持ってもらえず。現場責任者は管理職でもあり、労働組合員でもあるっていう変な組織で、法人の管理部も各現場の仕事も現場任せで、指導もないし面接もなく、指導されるのは経営的なことばかり。現場に顔も出さず、私だけでなく他の職員を労うこともない。
 仕事を創造していく経験もなければ、そのノウハウも知らない。ただただ、数字となって出てくるのは経営資料だから、その数字でしか経営を判断できないのだ。こんな職場にはもう居たくない、心からそう思った。医療の質を問う科学的な手法を誰も知らないのだから呆れてしまう。

 もし私がかっての職場の管理職だったら、「少し話をしたいので時間をとってほしい」と面接の予約をして、まずその職員の現状認識を確認したうえで、困ったことや他の職員に手伝ってほしいことはないのか、生活面で食事や睡眠は大丈夫かなど、丁寧に話をきくと思う。多忙な仕事を任せ切ってしまったこともまず謝罪するだろう。

 どんな話がされたかは知らされていないが、結局上層部で決めたことといったら、また新しい業務をスタートしてほしいとのことであった。退職を決めていて私は、拒絶。困難に直面しているときには遠巻きでしか見ていなかった管理職が次々と職場までやってきて面接。3カ月の有休をとることで異動に同意したが、次の職場でも、任せたら任せっぱなし、管理の仕方は同様であった。

 やりたいようにやらせるけれど、それはあなたの責任だから!?そういういスタンスなんだなぁ、この職場は。やりたいようにやっているんだから、後は何が起こっても知らないわよ、ってそんなような表現はしないが、言動を見ているとそう思えてしまう。

 






















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